第42回定時総会

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第42回総会は平成23年6月12日に八仙閣で開催された。 生憎の雨にもかかわらず210名(内来賓58名)と過去最高の参加者で、会場が手狭に感じられる程の大盛会となり、壱州弁が飛び交い、わいわいがやがやと楽しい会となった。 最初に3月の東日本大震災で犠牲になられた方への黙祷をする。(義援金も120,504円となり、西日本新聞社経由で献金した) 総会では23年振りに会則の改正案(コンプライアンスを折り込む)が提案され承認された。 又、牟田理事が副会長へ、殿川、白澤、原田、中野の4人が新理事となり、他の役員は全員再任となる。 幡鉾会長の挨拶では、戦後の満州での避難生活の体験から、被災者の皆さんにとって大事なことは、安心して生活できる環境を早く整えることと、 将来の復興の青写真を示すことではないだろうか。そのためには現在の混乱した政治のあり方を変えて欲しい。 又、豊島令隆氏が壱岐市の政策顧問に就任されたので、豊島さんを通じて壱岐市への建設的な提言をしたい等だった。 白川市長のご挨拶は一支国博物館は5月末で16万人達成。壱岐市は玄海原発の30KM圏内にいるので、国や九電と打ち合わせ防災対策を纏める。 東日本の被災地の応援に職員を派遣。ボランテアバスも出した。46億円かけたファイバー網が完成し、9局のテレビが視聴でき、壱岐ビジョンでは壱岐独自の情報を放送。 4中学への統合は早くも子供達も新体制に慣れた。4月28日より壱岐市福岡事務所(IKI IKI 情報プラザ)がオープンしたので活用して欲しい。 5月19,20日に壱岐で九州市長会を開催。118市長の中で107市長が出席、ご夫人や秘書等約1,000名来島した。 渡邊福岡市副市長からは岳の辻会の活躍ぶり、博多どんたくのお礼。平成17年から壱岐市より福岡市へ職員を継続して派遣してもらっている。 今後も壱岐市との関係を緊密にしたい。被災地には第5次応援隊として仮設住宅建設隊を派遣中。 高島市長の方針として、福岡市はアジアのリーダーとしての役割を推進し、発展するアジアの力を取り込んで福岡市の発展に繋げたい等のご挨拶があった。 山本剛正衆議院議員からは海がきれい、魚介類がおいしい、古代のロマンがある、この3点をどう結びつけて壱岐の魅力を発信するかが課題。 大震災の被害は想像に絶する。今後、国は何をすべきかを考えて行動するとの所信表明があった。 山本啓介長崎県議会議員のご挨拶は、当選お礼。信頼される県議となりたい。平成25年3月で離島振興法が切れるので、白川市長と一緒に対応に取り組む。 新しい振興法は全国一律ではなく、島ごとに政策や予算をつける方針なので、壱岐市をどう位置づけるかが重要だと考える。 川崎隆生西日本新聞社長のご挨拶では、父方の祖母(中井ハマ様)が郷ノ浦出身なので、何となく壱岐が気になる。 松永安左エ門翁に続く人材が壱岐から出て欲しいとのお話だった。 「壱岐焼酎を1杯飲めば1年、10杯飲めば10年長生きする」との山内賢明会長の名セリフで乾杯し祝宴に入る。 PRタイムでは牧山会長(東京雪州会)、長嶋会長(観光協会)、久保田市議(壱岐を元気にする会)、米倉所長(情報プラザ)、 三須社長(関西ブロードバンド)の諸氏から活動状況の報告があった。 シンセサイザー、フラダンス、かわせみ太鼓等のアトラクションで賑やかな懇親パーテイの中で終演となった。

平成24年度賀詞交歓会

平成24年1月20日18時半より。恒例の賀詞交歓会がホテルレオパレス博多で開催される。 今年は小坂文乃さんの講演への期待もあり、昨年の120名余に対し、157名の参加申込があるが、壱岐からの船便が荒天のため欠航となり、最終的には150名余の参加となる。 お陰で会場が手狭になり、出席者には迷惑をかけたり、運営も大変だったが、盛会だった。 幡鉾会長挨拶の後、白川博一壱岐市長、中村法道長崎県知事(代読山崎直樹壱岐振興局長)、大野敏久福岡市副市長の3氏より、ご来賓として挨拶を頂いた。 小坂文乃さん(日比谷松本楼の常務取締役企画室長。梅屋庄吉の曾孫として、著書「革命をプロデユースした日本人」や、 国内外での展示会、講演等で孫文の辛亥革命を支援した梅屋庄吉夫妻の活躍ぶりを紹介中。) 行事の関係で短い時間だったが、ポワーポイントを駆使して、分かり易い講演で好評だった。お話の要旨を紹介する。

1.昨10月に革命に携わった方の子孫100名が、北京大会堂に集まり、辛亥革命                         

 100周年を祝う。これで日中の歴史の暗闇に日が当たったと思う。孫文を中国では                         

 「革命の父」、台湾では「国父」と呼んでいる。                          

2.梅屋庄吉は14歳で親に隠れて上海に渡航する等、進取の気性の持ち主で、ア                         

 ジア各地を見て回り、欧米人にいじめられている中国を助けたいとの思いを抱く。                         

 後に孫文と出会い、清朝の政治を変えるため革命が必要だと意気投合する。「君                         

 は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」と約束し、映画で稼いだ収益を惜しみ                         

 もなく拠出し、革命を財政面で支援した。(現在価値で1兆円位か)                         

3.庄吉が海外へ出かけたまま帰らないので、反対を説得して、壱岐島北部可須村                         

 の香椎岩五郎の次女トク(明治8年生まれ)を養女として迎える。トクが17歳の時                         

 で、身長1メーター65センチ位と当時としては大柄だった。頭の回転が速く、気配り                         

 もよく、梅屋商店を切り盛りした。                         

4.親の強い希望で、庄吉27歳、トク20歳で夫婦となる。                         

5.孫文が東京に亡命中、秘書の宋慶齢に思いを寄せたが、孫文は48歳で妻子あ                         

 り、慶齢は22歳で、周囲の猛反対で慶齢は上海に連れ戻される。                         

6.トクは孫文の憔悴から、事情を知り、手を尽くして、2人の結婚を成就させた。                         

7.1925年に孫文は肝臓がんで58歳で死去する。孫文が亡くなると日中関係は悪                         

 化し、庄吉は日中平和のため奔走する。又、孫文の功績を後世に伝えるため、庄                         

 吉は全財産をつぎ込んで、孫文の銅像4体を作り、中国へ贈呈した。                         

 (文化大革命でも破壊されず、中国に現存している)                         

8.蒋介石とのパイプを活かし、日中平和を実現するため、広田弘毅外相と会談する                         

 が、3回目の会談に赴く途中、庄吉は駅で倒れ、65歳で帰らぬ人となる。                         

9.梅屋庄吉が大事にした言葉「冨貴在心」(人の価値は財産や名声で決まるので                         

 はなく、心の中にあり。人の価値は魂にある)が小坂文乃さんの結びの言葉でし                         

 た。                         

10.中国政府より感謝の意を込めて「孫文と梅屋庄吉夫妻」の銅像が長崎市へ、                          

 「梅屋トク」の胸像が壱岐市へ贈られた。                         

講演会の後、山内賢明会長の乾杯の発声で宴会となる。廣瀬典治壱岐高校長、出口威智郎壱岐市福岡事務所所長代理、坂元隆夫一支国博物館統括管理者、竹次沙希2011福岡親善大使(ミス福岡)、武田嘉人壱岐日報社編集長、中原泰輔バアリエホテル赤坂代表取締役の皆さんに、PRタイムで近況報告等のお話を頂いた。 大変盛り上がり終了時間を21時まで延長し、最後は市山繁壱岐市議会議長の万歳三唱でお開きとなる。